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山形県


やまがたじょう


東大手門全景

東大手門案内板
山形城 (山形県山形市霞城町)
天守:なし  日本100名城
戦国期の主な歴史
1357年 斯波家によって築城される。斯波家は後に「最上」を名乗る。
1514年 最上義定、伊達稙宗に臣従。
1520年 義定死去。義守が城主となる。
1570年 義守、義光に家督を譲る。
1574年 天正最上の乱。義光、伊達家より完全独立。
1600年 義光、慶長出羽合戦の功で57万石を得る。
1614年 義光死去。家親が家督を継ぐ。
1617年 家親死去。義俊が家督を継ぐ。
1622年 最上騒動。最上家が改易され、鳥居忠政が24万石で入城する。

(メモ)
 築城以来、江戸時代に改易されるまで最上宗家の居城となった。
 城下町の整備は、最上義光の時代からといわれる。
 慶長出羽合戦の際、城に霞(かすみ)がかかって攻め手の直江兼続の軍から城を隠したという逸話から「霞城(霞ケ城)」とも呼ばれる。
 城跡(霞城公園)内にある最上義光像は、出来はいいが、兜の利剣が折れているのがちょっと残念。
東大手門・枡形内  東大手門・堀 二の丸にたつ最上義光像
最上義光歴史館

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

最上義光所用 三十八間総覆輪筋兜 (県指定有形文化財)
 最上義光所用の兜で、三鍬形の前立てが特徴。慶長出羽合戦で、退く直江兼続の部隊を追った際に、反撃で受けたといわれる弾痕がある。

最上義光所用 指揮棒 (県指定有形文化財)
 最上義光が愛用した鉄製の指揮棒。重さが1750グラムあり、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」という文字が刻まれている。

伝 直江軍部隊 軍旗
 出羽慶長合戦の追撃戦で、直江兼続の部隊から奪った戦利品。旗の模様から「雁金の旗」と呼ばれている。



はせどうじょう


長谷堂城遠景
長谷堂城 (山形県山形市長谷堂)
天守:なし
戦国期の主な歴史
16世紀初め 最上家によって築城されたといわれる。
1514年 伊達稙宗によって落城。最上義定、稙宗に臣従する。
1542年 最上義守、天文の乱の混乱に乗じて城を奪還する。
1600年 慶長出羽合戦。最上家臣・志村光安直江兼続の軍を撃退する。
1622年 最上騒動。最上家が改易されたのち、破却される。
(メモ)
慶長出羽合戦には、直江兼続の元で傾奇者として知られる前田慶次も参戦している。
直江兼続が本陣を置いた菅沢山は、お互いの動向が見えるくらい近い距離にある。
復元された曲輪 菅沢山(直江兼続本陣) 主水塚(上泉泰綱討死場所)



うえすぎけびょうしょ


謙信公御廟(参道正面)

景勝公御廟(謙信公の左側)
上杉家廟所 (山形県米沢市御廟)
 国指定史跡に認定されている上杉家の廟所。
 藩政時代は、上杉家2代(米沢藩主としては初代)・景勝公の御廟を中心に歴代藩主の御廟が並んでおり、初代・謙信公の霊柩は米沢城本丸に祀られていた。
 明治に入って廃城令が出されると、謙信公の霊柩が米沢城より移され、新たに参道なども整備されて、謙信公の御廟を中心に歴代藩主の御廟が立ち並ぶ現在の形になった。



うえすぎじんじゃ


上杉神社・本殿(米沢城本丸跡)

上杉謙信公像
上杉神社 米沢城跡 (山形県米沢市丸の内)
天守:なし  続日本100名城
戦国期の主な歴史
室町時代初期、伊達家8代・宗達によって伊達家の支配下に入る。
1548年 天文の乱後、伊達稙宗が桑折西山城から居城を移す。以後、晴宗輝宗と支配が続く。
1567年 輝宗に嫡男・政宗が誕生。
1584年 輝宗、政宗に家督を譲る。
1589年 政宗、摺上原の戦い勝利後、黒川城に居城を移す。
1591年 政宗、岩出山に移封。42万石(のち91万石)で会津に入封した蒲生氏郷の支配下に入る。
1595年 蒲生氏郷死去。
1597年 蒲生家、宇都宮に移封。上杉景勝が120万石で会津に入り、重臣・直江兼続が城主となる。
1600年 上杉景勝、米沢30万石に減封。以後、上杉家の居城、米沢藩の藩庁となる。

(メモ)
 伊達政宗の出生地。稙宗、晴宗、輝宗、政宗と伊達家4代が居城とした。
 名言、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬなりけり」で有名な上杉鷹山は、米沢藩・上杉家の9代藩主(謙信公から数えると10代)で、境内には鷹山の銅像もある。


稽照殿
上杉神社内にある上杉家の宝物館
稽照殿

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

上杉謙信所用 飯綱権現前立兜付 色々威腹巻 (重要文化財)
 上杉謙信所用の具足で最も有名なもの。前立の飯綱権現(飯縄明神)は、戦勝の神として中世の武将たちに多く信仰された。

上杉景勝所用 紫糸威伊代札五枚胴具足
 上杉景勝所用と伝わる具足。兜の前立「金の日輪」が特徴。

直江兼続所用 金小札浅葱威二枚胴具足
 直江兼続所用の具足で、「愛」の字の前立で有名。「愛」の字は愛染明王をあらわし、愛染明王が軍神としても信仰されていたことから兼続が用いたといわれる。

上杉謙信所用 烏帽子形白綾頭巾
 上杉謙信所用の頭巾で、川中島の戦いにも着用したと伝わる。上杉神社境内にある謙信公の銅像もこれを被っていると思われる。

「毘」の旗 「龍」の旗
 上杉家の軍旗。「毘」は、毘沙門天をあらわし、謙信は自身を毘沙門天の化身と信じていたといわれる。「龍」は「かかれ乱れの龍」といわれ、突撃の際に使用したといわれる。

上杉謙信所用 馬上杯
 馬上杯とは、文字通り馬上で使用する杯(さかずき)のこと。上杉謙信所用の馬上杯で、内側が金箔押し、外側が七宝で装飾されおり、たいへん雅なものになっている。

琵琶 銘 朝風
 上杉謙信が愛用の琵琶と伝わるもので、音色が朝風にのって遠くまで届いたということで、この名がついた。



どうもりぜんこうじ

堂森善光寺 (山形県米沢市万世町堂森)
 傾奇者として知られる前田慶次の供養塔があるお寺。
 晩年の前田慶次は、堂森に無苦庵と名付けた庵を構えて隠棲し、和歌・連歌を詠みながら悠々自適な日々を過ごして1612年(諸説あり)に亡くなった。
 遺骸は、一花院に葬られたと伝わるが、一花院はすでに廃寺となっていて、はっきりしたことは分かっておらず、この善光寺に供養塔が建てられたのも1980年と意外に新しい。
 境内には、慶次が里の者たちと力比べをするときに使ったという「力石」、墓地斜面の中腹には慶次の友人で、直江兼続の右腕的存在だった志駄義秀の墓もある。
(メモ)
公共交通機関が充実していないので、できれば車で行ったほうがいい。
   
前田慶次供養塔 慶次の力石 志駄修理義秀の墓



むくあんあと

 
無苦庵の堀跡

慶次清水
無苦庵跡 前田慶次屋敷跡 
 無苦庵は、晩年の前田慶次が住んだ庵で、親友の直江兼続志駄義秀も訪れていたと伝わる。
 道路を挟んで南東の林の中には、慶次が水を汲んだという慶次清水もある。
(メモ)
 無垢庵跡は、現在、一般の方の住居となっているため、立ち入ることができず、僅かに残る堀跡を道路から見ることしかできない。
 慶次清水は、現在も湧き出ていて、農業用水として使用されている。